純愛とは何か①

我々日本人は、明治以降に整備された、人工的な標準語でモノを語るようになった。もともと持っていた言葉を変えたのなら、自分の本当の気持ちと言葉との間にズレがあるのではないか。

自分の気持ちと言葉にズレがあるままで、純愛は成立するのか。

 

という問題提起から、まず「純愛とは何か」について書いていこうと思います。

 

恋愛の中でも特に美しい、純愛とは何か。

 

物事を引き立てる要素の一つとして、「ドラマ」があります。

 

例えば、2016年に公開された「君の名は。」で有名な新海誠監督が、2007年に公開した映画「秒速5センチメートル」を考えてみます。

 

秒速5センチメートル」のキャッチコピーは、「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。」

 

※一部ネタバレあり※

 

あらすじは、以下のような感じです。

 

東京の小学校に通う、幼馴染の男の子と女の子の物語。

ある日、女の子が栃木へ転校してしまい、その後も二人は文通を続けますが、今度は男の子が鹿児島に転校することになります。もう二度と会えなくなるかもしれない…そう思った男の子は、女の子に会いに列車に乗ります。

しかし当日は関東で大雪になり、列車は遅延し、長い時間停車します。

深夜になって、ようやく待ち合わせ場所に到着した男の子は…

 

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さて、大雪に見舞われ、列車が遅延している場合、現代であれば携帯やスマホで連絡を入れれば済む話ですが、そのような事をしたら、そもそもこの物語にドラマはなくなってしまいます。

 

相手を信じて深夜になっても待ち合わせ場所に行く男の子と、相手を信じて深夜まで待つ女の子が描かれているからこそ、ドラマになるのです。

 

つまり、非日常を舞台に、障害を乗り越えて結ばれるから物語になるし、それは純愛と呼ばれるのです。

とすれば、恋愛物語が人々を惹き付けるのは、非現実(ドラマティック)だから、とも言えるのではないでしょうか。

 

しかし、ドラマティックの対が日常や現実であるならば、日常や現実は、純愛になり得ないという事になってしまいます。

 

もちろん、日常や現実のワンシーンに非日常や非現実があることもありますが、

日常が、映画のようにドラマティックの連続であることはありませんし、

まぁ、頭の中がお花畑な人はいるかもしれませんが、それは日常や現実から目を逸らしているだけでしょう。

 

そこで、

現実や日常自体はピュアになり得ない

とします。

 

その時、日常に無理矢理ピュアを追求するとどうなるか。

 

つまり、相手や自分が持つピュアでない部分をそぎ落とした先に純愛があるとすると、どうなるか。

 

ここで、純愛の金字塔であるシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を引用します。

ロミオとジュリエットといえば、以下のシーン

 

Juliet

O Romeo,Romeo! ああ、ロミオ、ロミオ、

Wherefore art thou Romeo?何故あなたの名前はロミオなの。

Deny thy father and refuse thy name;お父様と縁を切り、その名を捨てて。

Or,if thou wilt not,be but sworn my love,それが無理なら、せめて私を愛すると誓って。

And I’ll no longer be a Capulet.そうすれば、私はキャピュレットの名を捨てましょう。

‘Tis but thy name that is my enemy;モンタギュー家のロミオ、その名前だけが私の敵。

Thou art thyself,though not a Montague.モンタギューでなくても、あなたはあなた。

What’s Montague? 家柄に何の価値があるの。

it is nor hand,nor foot,Nor arm,nor face,nor any other part手足や腕、顔とは違う。

Belonging to a man. O,be some other name! 人間の一部じゃないのよ。ああ、あなたの名前を変えて。

What’s in a name? 名前に意味なんてあるもんですか!

That which we call a roseバラと呼ばれるあの花は、

By any other word would smell as sweet, ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない。

So Romeo would,were he not Romeo called,だから、ロミオだって、ロミオと呼ばなくても、

Retain that dear perfection which he owes without that title. あの完璧なすばらしさを失いはしない。

Romeo,doff thy name,ロミオ、その名を捨てて。

And for that name,which is no part of thee,あなたの本質とは関係のない、その名前と引き換えに、

Take all myself.私の全てをあげましょう。

 

 

この戯曲の凄いところは、家柄のみならず、相手の名前すら相手の本質ではないと言っているところです。

 

つまり、全てを切り捨てて、本当に相手のピュアな部分を残した物語がロミオとジュリエットと解釈できます。

 

とすると、

純愛とは、日常の全てを捨て去って、非日常に入り込むこと

ではないでしょうか。

 

一方で、そこまで削ぎ落とした時に人は生きていられるかという問題が生じます。

その答えは、ロミオとジュリエットの結末どおりです。

 

つまり、純愛の究極形態の一つに「死(ないし、自己犠牲)」がある考えます。

 

もちろん、ここでいう自己犠牲は、俺がここまでしてやったのに!というエゴの押し付けをいうのではありません。

 

では、純愛(エゴの押し付けにならない自己犠牲)とは何か。

 

純愛とは、

エゴの押し付けにならない信頼関係を前提とした、「男女間で共通認識を持ち、相手の中に永遠を見ること」

としてみたいと思います。

 

ロミオとジュリエットの場合、お互いの家がいがみ合っていない関係が望ましいと云う共通認識を持っていました。

 

ロミオとジュリエットがお互いに愛し合っているという信頼関係を前提として、お互いの家が大事だという共通の認識を持ち、全てを投げ打ってでも一緒になりたい(永遠を見る)としたから、あれは純愛物語になったのではないでしょうか。

 

とすれば、家制度など、歴史、伝統、国家というものが機能している時の方が純愛は成立しやすい、と考えられます。

 

ここで面白いのは、歴史、伝統、国家などのシガラミがなければ、そこにドラマは生まれない。シガラミがあるから、ドラマが生まれ、純愛になるという事です。