失敗した時に大切なこと

自分の一番大事にしている引用です。

福田恆存の「ふたたび美醜について」より

 

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(失敗をしたときに生じる)不具は大したことではない。

困るのは、そのために起こる心の”ひがみ”だということでした。


いつか私は子供と二人きりの時、いってやりました。友だちが「びっこ(あいつは失敗した)」といおうと「かたわ」とからかおうと、平気でいるんだよ。じっさいそうなんだからな。みんな意地悪でいうんじゃない。おもしろいからいうのさ。お前だってそういう友達が居いたらからかうだろ。

 


…醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に臨んではいけないということです。不具合者が健康人のように扱われぬからと言って、世間を恨んではならぬということです。

 


…私は「とらわれるな」と言っているのです。醜、貧、その他一切、持って生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申し上げているのです。

 


そういうと、顔はまずくとも構わない、心がけが一番大事だという人がある。私はそういうことを言っているのではありません。

 


これはマイナスだが、ほかにプラスの点もある。そういう考え方で、自分を慰めようとしてはいけないのです。その手でいったのでは、自分のマイナスについての”ひがみ”は消え去りません。それに眼をつぶって、他のプラス面だけを見ようとするからです。眼をつぶっても、現実は消滅しっこない。

 


むしろそれは、無意識の領域にもぐりこんで、手の付けられぬ陰性のものと化しやすい。それがひがみであり、劣等感であります。他にプラスがあるかどうかわかりません。ないかもしれない。努力しても、それが身につかないかもしれません。それでもいいから、自分には長所がひとつもなくても、自分の弱点だけは、すなおに認めようということです。

 


もちろん、長所のない人間などいるわけはありません。しかし弱点を取り返そうとして、激しい気持ちで長所の芽ばえにすがりつき、それを守ろうとすれば、必ずそこにゆがみが生じます。自分は顔がまずい。だから、ひとに指一本さされぬよう、立派に生きようという心がけは殊勝ですが、そういう意気込みから育てられた長所というものは、なるほど外見はしっかりして頼もしそうに見えますが、内側は案外もろいものです。また、そういう立派さには、他人に対する不寛容の冷たさがあるのです。

 


…ひがみは、現実に敗北した不平家を生むと同時に、頑な冷たい勝利者をも生むのです。人間の心理というのは、自分のことながら、いや、自分のことであればこそ、よほどうまく操らないと、しまいには自分でも操り切れぬ手に負えない存在と化してしまうものです。はじめの出発点が大事です。

 


まず自分の弱点を認めること。また、たいていのひとは、自分の長所よりはさきに弱点に気が付くでしょう。そしたら、それをすなおに認めること。そして、それにこだわらぬよう努めること。そうすれば、他に埋め合わせの長所をしいて見つけようとあがかなくても、そのすなおな努力そのものが、いつのまにか、あなたの長所を形づくっていくでしょう。無理に長所を引っ張り出そうとしなくても、現実の自己に甘んじるすなおさそのものが、隠れた長所をのびのびと芽生えさせる苗床となるでしょう。

 


…弱点をすなおに肯定するこということは、それをなおす努力を棄てることを意味しはしません。しかし、誰にも、生まれ変わってこなければ、どうにもならないというような弱点というものがあるのです。また、その弱点が外に出るのをいくぶんおさえることはできるにしても、それもある程度までのことです。どんな人間にも限界があります。現代は自由平等の時代ですから、誰も自分に限界があることを認めたがらない。ことに若いうちはそうです。そして、それはいいことなのです。若い時代は、自分に対する信頼の念が強く、ときには自分を買いかぶることさえあるでしょう。それはいいことなのです。そうしなければならない。が、すぐ自分の限界にぶつかるでしょう。私が心配するのは、その時期です。そのときに、若々しい魂がひねくれてしまうのを見るのが、私は嫌なのです。

 


…若い時の理想主義、いやこのばあいむしろ世の中を甘く見た空想というべきでしょうが、ひとたびそれが破れると、今度は社会を呪うようになる。それがひがみでないと誰が言えましょうか。一見、正義の名による社会批判のようにみえても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐心にすぎないのです。なにより困ることは、それによって傷つくのは、社会の方ではなく、自分自身だということです。

 


…だから、私は、生まれながらにして、どうにもならぬことがあるといっているのです。いくら努力しても徒労に終わる人もあり、難なく出世する人もあるといっているのです。いくらよくなっても、程度問題で、不平等のない社会はこないし、また、それがこようと、こまいと、そういうことにこだわらぬ心を養うことこそ、人間の生き方であり、幸福のつかみ方であるといえないでしょうか。