言葉のズレと純愛②

再度、そもそもの問題を書くと

 

我々日本人は、明治以降に整備された、人工的な標準語でモノを語るようになった。もともと持っていた言葉を変えたのなら、自分の本当の気持ちと言葉との間にズレがあるのではないか。

自分の気持ちと言葉にズレがあるままで、純愛は成立するのか。

 

という事でしたので、今まで純愛の正体について書いてきました。

純愛について書いてばかりで、論点がズレていると指摘を受けそうですが、ゴールである純愛を明確にしようという試みです。

 

しかしロミオとジュリエットを引用した事で、ロミオとジュリエットは西洋の古典であり、問題提起された我々日本人の感覚とは違うのではないか、と言われても仕方がありません。

 

では、江戸時代の近松門左衛門人形浄瑠璃曽根崎心中」を見てみましょう。

 

曽根崎心中は、醤油屋勤めの男と遊郭で働く女の心中物語です。

浄瑠璃は、友人の裏切りなど、ドラマ要素を追加していますが、実話は身分違いな恋の果てに入水した男女の物語とされています。

 

ちなみに、「夫婦円満」という言葉がありますが、このとき心中した二人の身体が帯で結ばれ、帯が二人の身体で満ちていたことが語源であるという説があります。

 

このように古今東西を問わず、人が純愛と見なしてきたものは変わらないようで、日常を削ぎ落とした純愛の果てに、人は生きることができないという結末も同じようです。

 

 

さて、自分の気持ちと言葉に乖離を課せられた近代日本人は、純愛ができないのか。

という本題に入ります。

 

結論としては、可能であるが、その力は圧倒的に弱くなっている、としたいと思います。

 

 

まず、言葉が通じにくい場合の恋愛について考えます。

 

言葉が気持ちを形作るという考えでいくと、同じ言語と同じ文化を認識していない人と分かり合えない

文化、言葉を共有できない人を愛せないという気持ちはわかります。

 

例えば、飲食店でアルバイトをしている女性が、店員に横柄な態度を取る男性を嫌うというのは、自分の所属している文化圏を分かり合えない、共通認識がない人と合わないのと同じでしょう。

 

 

戦場のメリークリスマス」で有名な、大島渚監督は、ご自身が国際結婚をされていた事もあり、このような事を言っていました。

 

国際恋愛は、言葉が通じにくいからこそ成立する。もともと通じ合えないという前提(しがらみ)で、たどたどしいが自分の国の言葉で「あなたを愛している」といって伝わった時、それだけですごくコミュニケーションが成立したような気分になる。

通じ合えないからこそ、通じ合えた時に、相手に永遠を見る。

しかし結婚して、お互いの言葉が流暢になると(非日常が日常に転化すると)口喧嘩ができるようになる。

こうしてたくさんの国際恋愛は生まれ、こうしてたくさんの国際恋愛破局するのである。

 

少しの言葉が通じあっただけで、相手の事を深く理解したと錯覚するのです。

 

となると、

自分の気持ちと言語に乖離があるから、純愛は成立しないのではなく、

その乖離(しがらみ)があるからこそ、純愛は成立するという話になる。

 

 

ただ、長く一緒にいると、いくら気持ちと言語に乖離があったとしてと、感覚的に相手の気持ちが察せられるようになる。

そうすると、魔法が解けたように喧嘩をし出すのですな。。

 

余談ですが、大島渚の代表作である「戦場のメリークリスマス」は、多国籍のスタッフで作成した事が成功の要因となったと考えられてます。

大島監督自身、様々な国の人々が集まり、相手の言っていることはわからない故に、相手のことをわかろうとした事が、映画の内容と作成過程がマッチしたことが成功に繋がったとインタビューで答えているほどです。

 

 

ここまで様々な物語をベースに、純愛に必要な「共通認識」について書いてきました。

 

では、共通認識の先に何があるのか、ここでもう一つ、近代現代の日本で実際にあった純愛を見てみましょう。

大東亜戦争で殉職された、日本兵の宅島徳光が恋人に宛てた手紙です。

 

 

「自分が守るべき日本とは何か

 

自分にとっての日本

それは君のような優しい乙女の住む国である

俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、俺たちに頭を下げてくれる子供達のいじらしさに、強く胸を打たれたのである

もしそれが、君に対する愛よりも遥かに強いものと言ったら君は怒るだろうか

否、否・・・

決して君は怒らないだろう

そして俺とともに、俺の心を理解してくれるだろう

本当にあのように可愛い子供達のためなら、命も決して惜しくはない」

 

この手紙の凄いところは、恋人よりも偶然通りがかった田畑で頭を下げてくれた子供に対する愛情の方が強いと言っている事です。

 

戦争がなければ二人の間に生まれたであろう子供を見出した、と解釈できますが、当時のことですので、他人の子を我が子として、おそらく宅島が守ろうとした日本の子として書いたのだと思います。

 

日本の子=守るべき自分の子という、当時の共通認識がなければ、意味がわからない文章ですが、恋人との間に共通の認識があったから美しい文章になり得ました。

同時に、相手に対する確信(信頼)を持てなければ、この文章を書くことは不可能でと言ってもいいでしょう。

 

先に、国家、歴史、伝統が機能している時の方が純愛は生じると書きましたが、宅島の例は、国家が純愛を支えた一つの例かなと思います。

 

そして共通認識の先にあるものとは、抽象的な表現で恐縮ですが、

「一緒に永遠を見たという記憶」

と表現させていただきます。

 

日常を守るために宅島は死んでいった。

日常を超えた世界から始まる純愛が日常を支えるならば、日常は日常を超えたものが支えるのである。

つまり、日常しか知らない人には、純愛はできないのである。