純愛の効用③

ここまで、純愛とは何か、言葉と気持ちのズレ、について書いてきました。


しかしこれでは、机上の空論になってしまうので、純愛をすることの効用を書いて締めたいと思います。

 

話を少し戻して、

そもそも純愛の果てに死があるとすれば、純愛はしない方がいいのでしょうか。

まずは、純愛をし、かつ生きることに触れたいと思います。

 

ここで、純愛をし、かつ生きるヒントは、リュック・ベッソン監督の映画「LEON」にあります。「LEON」のキャッチコピーは、「凶暴な純愛」。


殺し屋のレオンと、日常的に親から暴力を受けるマチルダの、歳が大きく離れた二人の物語です。


「年齢差」という障害があり、普段から酷い目にあう事が日常のマチルダが、レオンとあって殺し屋の仕事を手伝う傍で惹かれていく非日常が描かれています。


もちろん人間は、非日常(日常から足を離して)のみでは生きられないので、二人に死の影が迫りますが…日常に戻って生きるラストになってます。

つまり、LEONは、純愛をし、かつ生きる物語となっています。


内容は映画をご覧頂きたいので伏せますが、

LEONによると純愛をしかつ生きるには、

「日常と非日常を行き来する」

となります。


ネタバレを極力防ぎながら書くのは難しいため、具体的な「日常と非日常を行き来する」については、このあとで説明する「純愛の効用」で書きます。


なお、映画の最後に、主人公レオンが大事にしている観葉植物が、地に根を張っているシーンがありますが、日常と非日常という対比を考えながら見ると、なかなか意味深なものがあります。


日常だけで生きるのではなく、非日常にも行き来して生きることができる、

ということを主張したいわけです。

 

 

では、純愛の機能や効用とは何でしょうか。

結論から言いますと、

純愛には、この相手と日常を超えた永遠を見た、という想いが日常生活に張りを与える、心をリフレッシュさせる、機能がある。


例えば、旦那がグデーっとしている時に、

見ったくない、嫌だ、と不快に感じるか、

この人にも可愛いところがある、と感じるかは、相手の立派なところ(非日常)に惚れ、一緒に永遠を見たという記憶があるかどうかではないかという事です。


たとえ相手の日常を見たとしても、非日常を一緒に見たという経験があれば、そう簡単に嫌になるものではないのではないか。


その点、女性は普段可愛い分、いざというときにカッコいいと思わせてなんぼのものと思います。


SF作家の新井素子氏が以下のようなことを言っておりました。


おとぎ話のエンディングは無責任である。

波乱万丈の物語の末、王子様とお姫様は結ばれ、末永く幸せに暮らしたというが、そのあとは退屈でしかたない。

 

言葉を変えれば、

ヤン・デ・ボン監督の映画「スピード(初代)」のキャッチコピー

I hope not because relationships that start under intense circumstances never last.「異常な状況で結ばれた男女は長続きしないのよ」

でしょうか。

 

日常にいれば、相手のどうしようもない点が見えてきて、それが嫌になるという事もあると思います。距離が近づけば近づくほど。

 

自分が提唱したいのは、

こういう時こそ、純愛が役に立つのではないだろうか

という事です。


人間が日常でしか生きられない事は先に述べた通りで、次元の高いところで永遠に生きられる人間などいません。

しかし、次元の低いところでだけ生きなければならないわけではない。

 

つまり、

人間は、次元の高いところと、低いところの両方に足をかけて生きるものである。それを思い出すことが重要なのではないか。


ずっと強い人間などいないわけだから、相手を尊敬できるということは、日常も非日常も受け入れられるということで、そうして初めて、尊敬しかつ可愛いと思わせられるのではないか。


自分の好きな歌に

「平凡な暮らしに自信を持つ勇気をくれたのはあなただけ」

という歌詞がありますが、何気ないことに自信を持つことは強さがいることです。日常を超えた経験がないと、平凡な暮らしに自信が持てなくなってくる。つまり、日常に張りがなくなってくるのです。


20世紀フランスの劇作家でジロードは、

「人間とは無限とゼロの間にあって、色鮮やかで確かで健やかなものだ」

といい、

パスカルは著作「パンセ」の72章で

「人間は有限の存在である。有限であることは、真の無限に比べればゼロである。つまり、ゼロに比べれば無限である。」

と言いました。

 

つまり、人間は、日常と非日常のどちらか一方に偏るのではなく、両方に足をつけて行き来することができれば、純愛を持ちながら末永く楽しく生きられるのでないかと思うのです。

 

逆に、非日常に触れず、日常に張りがなくなると、色恋沙汰はどうなるか。

 

「非日常がない」とは、ドラマがないということです。

我々は、何か惹かれるものがあるから、古今東西、ドラマや物語が語り継がれたり、人の注目を集めるのでしょう。

そのようなドラマや物語のない人生が面白く、人を魅了するでしょうか。


ドラマや物語を見失った人は、

もっといいバッグがほしい、車が欲しい、

という物質主義的な、欺瞞で取り繕ろうとするようになるのではないかと思います。


自信のない人ほど、身の回りをモノで埋め尽くし、マテリアリズムに落ちいると言ったところででしょうか。


1980年頃に言われた「恋愛資本主義」は、男は金と権力を提供し、女は若さと美貌を提供するという事を揶揄した表現です。


つまり、相手を数値化し、相手に偏差値をつける。

そこにドラマはなく、相手のステータスを偏差値的に処理するのなら、その人の非日常に触れる必要もなく、惚れたり、惹かれる事はなくなり、打算だけで恋愛が成立するようになる。


とすると、ドラマがなくなり、恋愛が完全に日常のものとなったら、恋愛資本主義になっても仕方がないのではないでしょうか。


そして、恋愛資本主義になってしまうのは、永遠を見る力が男女双方で衰えているからではないか、と思うのである。


例えば、先に紹介した秒速五センチメートルのように連絡が取れない状態だからこそ、相手を信頼するより他なく、ドラマになるのです。


一方で、現代は、障害やしがらみを無くそうとする、もしくは無くせざるを得ない時代ですので、ドラマや物語が希薄になり、結果、純愛が成立しにくくなっているのではないかと考えるのです。

 

つまり、日常の世界を越えることが純愛の目的だとすれば、カメラでドラマティックな一瞬を切り抜くように、日常の世界を越えることは、あらゆる表現の目標であるとも言えます。


男女関係で相手の代わりがいるのならその関係の価値は薄くなるように、誰でも表現できることを表現したって何の価値もない。


見るに値する、聞くに値するという表現が誰にでもできるわけではないように、男女関係もその二人だから成立する物語があるはずである。


ここで、純愛は芸術に結びつくのではないかと考えるのです。


アメリカのロック歌手の言葉を借りれば、

「すべての芸術は、人類全体に対する愛情表現である」

 

つまり、表現という基盤があり、その上にドラマが生み出され、純愛になるというように、近代日本に純愛が成立するかという疑問は、近代日本に表現が成立するか、という問いにまで発展する事になる。


再三、問題提起を書くと

 

我々日本人は、明治以降に整備された、人工的な標準語でモノを語るようになった。もともと持っていた言葉を変えたのなら、自分の本当の気持ちと言葉との間にズレがあるのではないか。

自分の気持ちと言葉にズレがあるままで、純愛は成立するのか。

 

これに対し、結論は、

純愛にはドラマが必要であり、ドラマにはシガラミや障害が必要である。しかし、シガラミや障害を排除するほど、純愛は近代日本において成立しにくくなる。しかし、成立しないわけではない。

何故ならば、純愛とは表現や芸術にも繋がるからである。

個人を超えた何らかの価値観、理想、それを信じたいという気持ちは、どんな時代であれ、どんな社会にも宿っているはずである。

それが残っている限り、いついかなるときも、純愛は成立しうるのである。


信じるものがなくなったとしても、何かを信じたいという気持ちがあるかぎり、純愛は消えないのである。