普遍的な価値観を持つという事

現代貨幣理論(以下、MMT)について、肯定的に書かれている記事を目にすることが多くなった。

MMT(現代貨幣理論)が、日本経済を「大復活」させるかもしれない(小川 匡則) | マネー現代 | 講談社(1/6)

MMTは純粋理論のため間違っているとする根拠がわからない

 

私は、MMTが採用され、日本の政策が緊縮財政から積極財政に切り替わったとしても、「日本が良くなる」という希望が持てない。

 

そもそもMMTは、アメリカ民主党29歳の新星で、将来の女性初大統領ともいわれているオカシオコルテス下院議員が支持を表明したことから大きく議論されるようになった。

さらに、MMTの提唱者であるニューヨーク州立大学のステファニーケルトン教授が美人の学者であり、批判にさらされながらも毅然と反論している姿が注目される一因になったのだろう。

しかしMMTが取り上げられる以前から、日本の学者の中でも心ある人は、MMTと同じことを提唱していたが、何ら取り上げられることもなかった。

 

MMTが日本で大きく議論され、日本の政策を変えるに至ったとしても、それは幕末の黒船と同じく、能動的な動きではありません。ただ、流行だから、グローバルスタンダードだから、合わせているにすぎない。

日本人は流されやすいといいますが、何故このようなことになってしまうのか。

 

それは、どのようなことを議論しても「考え方は人それぞれ、何事もバランスが大事だ」という話に終始してしまうことが一番の原因だと思う。

 

近代に入って、社会は絶対的な価値観の追求を諦め、相対的な、偏差値的な世界観を中心に据えるようになりました。

 考え方は人それぞれだよね、と言って、何が正しいのかを考える事を放棄した。

しかしそれは、絶対的なものは無用になったからではなく、渋い柿だとして捨てたに過ぎない。 

 

私は、「普遍的な価値観」はあると思うし、「持つべき」だと思う。

例えば、江戸時代にあった「士農工商」という価値観と、現代の価値観を比較する。

士農工商の説明は省略するが、現代では悪しき封建的階級的考え方だと非難される。

しかし、過去を批判する現代は立派な価値観を持っているのだろうか。

 

下記の図表ように、この20年間で労働分配率は横ばいにもかかわらず、投資家への配当が異様に高まった。つまり、士農工商とは真逆の価値観により、国柄が変えられてきたのだ。

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http://mtdata.jp/data_65.html#houjin

私は、労働者よりも投資家が尊ばれる、西洋の大航海時代的な価値観よりも、士農工商の方が馴染みやすいし、どちらがいいかという話でなくても、上記の図表から読み取れる国造りは間違っていると思う。

 

では次に、「持つべき」としたことについては、以下のような考え方に基づきます。

 

自分のスタンダードがない国民というものは、グローバル・スタンダードなるものがあったとしても、それとの距離も測れず、協調もできず、それに対し批判することもできず、提言も何もできないからです。

 

そもそも世界にあるいは他者に認められるとはどういうことを指すのでしょうか。

譲歩を前提としたり、他者に媚びたり、他者の基準に一方的に自らを合わせるということで あったとすれば 自分は何を目的とし、何をなすべきかということを大切にするよりもまず他者の評価を気にかけ、嫌われないようにしよう、そうした不安にとらわれないようにしようそういう姿勢につながっていくのではないかと思います。

それではいずれ他者に寄り添う、合わせることばかり考える人間になるのではないでしょうか。

私たちはまず堂々と自ら成すべきことに挑む、自らの価値観を信じて生きる、戦う、という姿勢を取り戻すべきではないかと思います。

 

 

さて、本記事の最初に「日本が良くなる」という希望が持てないと書きましたが、

その国や国民が望ましい状態にあるかどうかについて、江藤淳が著書「南洲残影」で以下のように書いており、深くうなずいたことがありました。

 

江藤淳著「南洲残影」より

 

いつもスマイルしていなければならない、そんな人生ほど辛いものはないと思ったものだが、しかし考えてみれば、いま大半の日本人はそんな人生を送らされているのではないか。

人間というものは、元来もっと不幸なものだ。不幸なことを許容されないような世の中は嘘の世の中だ。だが、現在の日本の社会は、不幸であることを許容しようとしない。なぜこうなってしまったのか。もとをただすとおそらく明治維新まで行きつくのだろうと思う。

私は、人は何も成功などしなくてもよいと思うのだ。失敗して大いに結構だ。人間は大体において不幸なものであり、しばしば失敗するものなのだ。西郷は、要するに成功至上主義、近代化最優先主義、優勝劣敗主義という風潮に対して「ノー」といったのである。そうではない、明治維新は、そんなものを求めて起こしたものではない、と。

明治維新は日本人が日本人らしく暮らし続けるために実現されたのだ。日本の政治体制や価値観を決めるのは日本人以外の何物でもない。同様に、外国の価値観や生き方を決めるのは外国人であってそれ以外の何者でもない。その相互が尊重し合えばよいのではないか。

それもできずに西洋人のサル真似をして、成功しなければ駄目だ、失敗は許されない、という、そんなことだけが目的の人生は虚栄のための人生、成功者だけのための社会ではないか。

 

私は西南戦争を起こした西郷南洲と彼に準じた人々に深く感謝したい気持ちを持っている。この壮絶な失敗は、絶対に日本国民の記憶から拭い去ることはできない。

平家の滅亡と同様に、西郷の滅亡は忘れることのできるものではない。人間は不幸でちっとも構わない。失敗して何が悪いのか。それを直視するところからこそ勇気が出てくるからである。

成功だけが目的の国家は卑しい国家である。我々日本人は、今こそ西郷が死を賭して後世に遺した無言の思想の含蓄を噛みしめ、「第二の敗戦」と言われる現在の経済的混乱を好機として、新しい国づくりに立ち向かうべきではないか。

 

 

おそらく、MMTにより「失われた20年」という経済停滞から脱却できたとしても、「アメリカが、中国が…」という他人を主語にした国策が展開されるのだと思います。

 

日本を主語とした、日本がどうあるべきか、どうありたいか、という事を真剣に考えなければ、三島由紀夫のいうとおり

 

「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」

 

少なくとも、自分は、そういう卑しい人間にはなりたくないのである。