失敗した時に大切なこと

自分の一番大事にしている引用です。

福田恆存の「ふたたび美醜について」より

 

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(失敗をしたときに生じる)不具は大したことではない。

困るのは、そのために起こる心の”ひがみ”だということでした。


いつか私は子供と二人きりの時、いってやりました。友だちが「びっこ(あいつは失敗した)」といおうと「かたわ」とからかおうと、平気でいるんだよ。じっさいそうなんだからな。みんな意地悪でいうんじゃない。おもしろいからいうのさ。お前だってそういう友達が居いたらからかうだろ。

 


…醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に臨んではいけないということです。不具合者が健康人のように扱われぬからと言って、世間を恨んではならぬということです。

 


…私は「とらわれるな」と言っているのです。醜、貧、その他一切、持って生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申し上げているのです。

 


そういうと、顔はまずくとも構わない、心がけが一番大事だという人がある。私はそういうことを言っているのではありません。

 


これはマイナスだが、ほかにプラスの点もある。そういう考え方で、自分を慰めようとしてはいけないのです。その手でいったのでは、自分のマイナスについての”ひがみ”は消え去りません。それに眼をつぶって、他のプラス面だけを見ようとするからです。眼をつぶっても、現実は消滅しっこない。

 


むしろそれは、無意識の領域にもぐりこんで、手の付けられぬ陰性のものと化しやすい。それがひがみであり、劣等感であります。他にプラスがあるかどうかわかりません。ないかもしれない。努力しても、それが身につかないかもしれません。それでもいいから、自分には長所がひとつもなくても、自分の弱点だけは、すなおに認めようということです。

 


もちろん、長所のない人間などいるわけはありません。しかし弱点を取り返そうとして、激しい気持ちで長所の芽ばえにすがりつき、それを守ろうとすれば、必ずそこにゆがみが生じます。自分は顔がまずい。だから、ひとに指一本さされぬよう、立派に生きようという心がけは殊勝ですが、そういう意気込みから育てられた長所というものは、なるほど外見はしっかりして頼もしそうに見えますが、内側は案外もろいものです。また、そういう立派さには、他人に対する不寛容の冷たさがあるのです。

 


…ひがみは、現実に敗北した不平家を生むと同時に、頑な冷たい勝利者をも生むのです。人間の心理というのは、自分のことながら、いや、自分のことであればこそ、よほどうまく操らないと、しまいには自分でも操り切れぬ手に負えない存在と化してしまうものです。はじめの出発点が大事です。

 


まず自分の弱点を認めること。また、たいていのひとは、自分の長所よりはさきに弱点に気が付くでしょう。そしたら、それをすなおに認めること。そして、それにこだわらぬよう努めること。そうすれば、他に埋め合わせの長所をしいて見つけようとあがかなくても、そのすなおな努力そのものが、いつのまにか、あなたの長所を形づくっていくでしょう。無理に長所を引っ張り出そうとしなくても、現実の自己に甘んじるすなおさそのものが、隠れた長所をのびのびと芽生えさせる苗床となるでしょう。

 


…弱点をすなおに肯定するこということは、それをなおす努力を棄てることを意味しはしません。しかし、誰にも、生まれ変わってこなければ、どうにもならないというような弱点というものがあるのです。また、その弱点が外に出るのをいくぶんおさえることはできるにしても、それもある程度までのことです。どんな人間にも限界があります。現代は自由平等の時代ですから、誰も自分に限界があることを認めたがらない。ことに若いうちはそうです。そして、それはいいことなのです。若い時代は、自分に対する信頼の念が強く、ときには自分を買いかぶることさえあるでしょう。それはいいことなのです。そうしなければならない。が、すぐ自分の限界にぶつかるでしょう。私が心配するのは、その時期です。そのときに、若々しい魂がひねくれてしまうのを見るのが、私は嫌なのです。

 


…若い時の理想主義、いやこのばあいむしろ世の中を甘く見た空想というべきでしょうが、ひとたびそれが破れると、今度は社会を呪うようになる。それがひがみでないと誰が言えましょうか。一見、正義の名による社会批判のようにみえても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐心にすぎないのです。なにより困ることは、それによって傷つくのは、社会の方ではなく、自分自身だということです。

 


…だから、私は、生まれながらにして、どうにもならぬことがあるといっているのです。いくら努力しても徒労に終わる人もあり、難なく出世する人もあるといっているのです。いくらよくなっても、程度問題で、不平等のない社会はこないし、また、それがこようと、こまいと、そういうことにこだわらぬ心を養うことこそ、人間の生き方であり、幸福のつかみ方であるといえないでしょうか。

純愛の効用③

ここまで、純愛とは何か、言葉と気持ちのズレ、について書いてきました。


しかしこれでは、机上の空論になってしまうので、純愛をすることの効用を書いて締めたいと思います。

 

話を少し戻して、

そもそも純愛の果てに死があるとすれば、純愛はしない方がいいのでしょうか。

まずは、純愛をし、かつ生きることに触れたいと思います。

 

ここで、純愛をし、かつ生きるヒントは、リュック・ベッソン監督の映画「LEON」にあります。「LEON」のキャッチコピーは、「凶暴な純愛」。


殺し屋のレオンと、日常的に親から暴力を受けるマチルダの、歳が大きく離れた二人の物語です。


「年齢差」という障害があり、普段から酷い目にあう事が日常のマチルダが、レオンとあって殺し屋の仕事を手伝う傍で惹かれていく非日常が描かれています。


もちろん人間は、非日常(日常から足を離して)のみでは生きられないので、二人に死の影が迫りますが…日常に戻って生きるラストになってます。

つまり、LEONは、純愛をし、かつ生きる物語となっています。


内容は映画をご覧頂きたいので伏せますが、

LEONによると純愛をしかつ生きるには、

「日常と非日常を行き来する」

となります。


ネタバレを極力防ぎながら書くのは難しいため、具体的な「日常と非日常を行き来する」については、このあとで説明する「純愛の効用」で書きます。


なお、映画の最後に、主人公レオンが大事にしている観葉植物が、地に根を張っているシーンがありますが、日常と非日常という対比を考えながら見ると、なかなか意味深なものがあります。


日常だけで生きるのではなく、非日常にも行き来して生きることができる、

ということを主張したいわけです。

 

 

では、純愛の機能や効用とは何でしょうか。

結論から言いますと、

純愛には、この相手と日常を超えた永遠を見た、という想いが日常生活に張りを与える、心をリフレッシュさせる、機能がある。


例えば、旦那がグデーっとしている時に、

見ったくない、嫌だ、と不快に感じるか、

この人にも可愛いところがある、と感じるかは、相手の立派なところ(非日常)に惚れ、一緒に永遠を見たという記憶があるかどうかではないかという事です。


たとえ相手の日常を見たとしても、非日常を一緒に見たという経験があれば、そう簡単に嫌になるものではないのではないか。


その点、女性は普段可愛い分、いざというときにカッコいいと思わせてなんぼのものと思います。


SF作家の新井素子氏が以下のようなことを言っておりました。


おとぎ話のエンディングは無責任である。

波乱万丈の物語の末、王子様とお姫様は結ばれ、末永く幸せに暮らしたというが、そのあとは退屈でしかたない。

 

言葉を変えれば、

ヤン・デ・ボン監督の映画「スピード(初代)」のキャッチコピー

I hope not because relationships that start under intense circumstances never last.「異常な状況で結ばれた男女は長続きしないのよ」

でしょうか。

 

日常にいれば、相手のどうしようもない点が見えてきて、それが嫌になるという事もあると思います。距離が近づけば近づくほど。

 

自分が提唱したいのは、

こういう時こそ、純愛が役に立つのではないだろうか

という事です。


人間が日常でしか生きられない事は先に述べた通りで、次元の高いところで永遠に生きられる人間などいません。

しかし、次元の低いところでだけ生きなければならないわけではない。

 

つまり、

人間は、次元の高いところと、低いところの両方に足をかけて生きるものである。それを思い出すことが重要なのではないか。


ずっと強い人間などいないわけだから、相手を尊敬できるということは、日常も非日常も受け入れられるということで、そうして初めて、尊敬しかつ可愛いと思わせられるのではないか。


自分の好きな歌に

「平凡な暮らしに自信を持つ勇気をくれたのはあなただけ」

という歌詞がありますが、何気ないことに自信を持つことは強さがいることです。日常を超えた経験がないと、平凡な暮らしに自信が持てなくなってくる。つまり、日常に張りがなくなってくるのです。


20世紀フランスの劇作家でジロードは、

「人間とは無限とゼロの間にあって、色鮮やかで確かで健やかなものだ」

といい、

パスカルは著作「パンセ」の72章で

「人間は有限の存在である。有限であることは、真の無限に比べればゼロである。つまり、ゼロに比べれば無限である。」

と言いました。

 

つまり、人間は、日常と非日常のどちらか一方に偏るのではなく、両方に足をつけて行き来することができれば、純愛を持ちながら末永く楽しく生きられるのでないかと思うのです。

 

逆に、非日常に触れず、日常に張りがなくなると、色恋沙汰はどうなるか。

 

「非日常がない」とは、ドラマがないということです。

我々は、何か惹かれるものがあるから、古今東西、ドラマや物語が語り継がれたり、人の注目を集めるのでしょう。

そのようなドラマや物語のない人生が面白く、人を魅了するでしょうか。


ドラマや物語を見失った人は、

もっといいバッグがほしい、車が欲しい、

という物質主義的な、欺瞞で取り繕ろうとするようになるのではないかと思います。


自信のない人ほど、身の回りをモノで埋め尽くし、マテリアリズムに落ちいると言ったところででしょうか。


1980年頃に言われた「恋愛資本主義」は、男は金と権力を提供し、女は若さと美貌を提供するという事を揶揄した表現です。


つまり、相手を数値化し、相手に偏差値をつける。

そこにドラマはなく、相手のステータスを偏差値的に処理するのなら、その人の非日常に触れる必要もなく、惚れたり、惹かれる事はなくなり、打算だけで恋愛が成立するようになる。


とすると、ドラマがなくなり、恋愛が完全に日常のものとなったら、恋愛資本主義になっても仕方がないのではないでしょうか。


そして、恋愛資本主義になってしまうのは、永遠を見る力が男女双方で衰えているからではないか、と思うのである。


例えば、先に紹介した秒速五センチメートルのように連絡が取れない状態だからこそ、相手を信頼するより他なく、ドラマになるのです。


一方で、現代は、障害やしがらみを無くそうとする、もしくは無くせざるを得ない時代ですので、ドラマや物語が希薄になり、結果、純愛が成立しにくくなっているのではないかと考えるのです。

 

つまり、日常の世界を越えることが純愛の目的だとすれば、カメラでドラマティックな一瞬を切り抜くように、日常の世界を越えることは、あらゆる表現の目標であるとも言えます。


男女関係で相手の代わりがいるのならその関係の価値は薄くなるように、誰でも表現できることを表現したって何の価値もない。


見るに値する、聞くに値するという表現が誰にでもできるわけではないように、男女関係もその二人だから成立する物語があるはずである。


ここで、純愛は芸術に結びつくのではないかと考えるのです。


アメリカのロック歌手の言葉を借りれば、

「すべての芸術は、人類全体に対する愛情表現である」

 

つまり、表現という基盤があり、その上にドラマが生み出され、純愛になるというように、近代日本に純愛が成立するかという疑問は、近代日本に表現が成立するか、という問いにまで発展する事になる。


再三、問題提起を書くと

 

我々日本人は、明治以降に整備された、人工的な標準語でモノを語るようになった。もともと持っていた言葉を変えたのなら、自分の本当の気持ちと言葉との間にズレがあるのではないか。

自分の気持ちと言葉にズレがあるままで、純愛は成立するのか。

 

これに対し、結論は、

純愛にはドラマが必要であり、ドラマにはシガラミや障害が必要である。しかし、シガラミや障害を排除するほど、純愛は近代日本において成立しにくくなる。しかし、成立しないわけではない。

何故ならば、純愛とは表現や芸術にも繋がるからである。

個人を超えた何らかの価値観、理想、それを信じたいという気持ちは、どんな時代であれ、どんな社会にも宿っているはずである。

それが残っている限り、いついかなるときも、純愛は成立しうるのである。


信じるものがなくなったとしても、何かを信じたいという気持ちがあるかぎり、純愛は消えないのである。

言葉のズレと純愛②

再度、そもそもの問題を書くと

 

我々日本人は、明治以降に整備された、人工的な標準語でモノを語るようになった。もともと持っていた言葉を変えたのなら、自分の本当の気持ちと言葉との間にズレがあるのではないか。

自分の気持ちと言葉にズレがあるままで、純愛は成立するのか。

 

という事でしたので、今まで純愛の正体について書いてきました。

純愛について書いてばかりで、論点がズレていると指摘を受けそうですが、ゴールである純愛を明確にしようという試みです。

 

しかしロミオとジュリエットを引用した事で、ロミオとジュリエットは西洋の古典であり、問題提起された我々日本人の感覚とは違うのではないか、と言われても仕方がありません。

 

では、江戸時代の近松門左衛門人形浄瑠璃曽根崎心中」を見てみましょう。

 

曽根崎心中は、醤油屋勤めの男と遊郭で働く女の心中物語です。

浄瑠璃は、友人の裏切りなど、ドラマ要素を追加していますが、実話は身分違いな恋の果てに入水した男女の物語とされています。

 

ちなみに、「夫婦円満」という言葉がありますが、このとき心中した二人の身体が帯で結ばれ、帯が二人の身体で満ちていたことが語源であるという説があります。

 

このように古今東西を問わず、人が純愛と見なしてきたものは変わらないようで、日常を削ぎ落とした純愛の果てに、人は生きることができないという結末も同じようです。

 

 

さて、自分の気持ちと言葉に乖離を課せられた近代日本人は、純愛ができないのか。

という本題に入ります。

 

結論としては、可能であるが、その力は圧倒的に弱くなっている、としたいと思います。

 

 

まず、言葉が通じにくい場合の恋愛について考えます。

 

言葉が気持ちを形作るという考えでいくと、同じ言語と同じ文化を認識していない人と分かり合えない

文化、言葉を共有できない人を愛せないという気持ちはわかります。

 

例えば、飲食店でアルバイトをしている女性が、店員に横柄な態度を取る男性を嫌うというのは、自分の所属している文化圏を分かり合えない、共通認識がない人と合わないのと同じでしょう。

 

 

戦場のメリークリスマス」で有名な、大島渚監督は、ご自身が国際結婚をされていた事もあり、このような事を言っていました。

 

国際恋愛は、言葉が通じにくいからこそ成立する。もともと通じ合えないという前提(しがらみ)で、たどたどしいが自分の国の言葉で「あなたを愛している」といって伝わった時、それだけですごくコミュニケーションが成立したような気分になる。

通じ合えないからこそ、通じ合えた時に、相手に永遠を見る。

しかし結婚して、お互いの言葉が流暢になると(非日常が日常に転化すると)口喧嘩ができるようになる。

こうしてたくさんの国際恋愛は生まれ、こうしてたくさんの国際恋愛破局するのである。

 

少しの言葉が通じあっただけで、相手の事を深く理解したと錯覚するのです。

 

となると、

自分の気持ちと言語に乖離があるから、純愛は成立しないのではなく、

その乖離(しがらみ)があるからこそ、純愛は成立するという話になる。

 

 

ただ、長く一緒にいると、いくら気持ちと言語に乖離があったとしてと、感覚的に相手の気持ちが察せられるようになる。

そうすると、魔法が解けたように喧嘩をし出すのですな。。

 

余談ですが、大島渚の代表作である「戦場のメリークリスマス」は、多国籍のスタッフで作成した事が成功の要因となったと考えられてます。

大島監督自身、様々な国の人々が集まり、相手の言っていることはわからない故に、相手のことをわかろうとした事が、映画の内容と作成過程がマッチしたことが成功に繋がったとインタビューで答えているほどです。

 

 

ここまで様々な物語をベースに、純愛に必要な「共通認識」について書いてきました。

 

では、共通認識の先に何があるのか、ここでもう一つ、近代現代の日本で実際にあった純愛を見てみましょう。

大東亜戦争で殉職された、日本兵の宅島徳光が恋人に宛てた手紙です。

 

 

「自分が守るべき日本とは何か

 

自分にとっての日本

それは君のような優しい乙女の住む国である

俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、俺たちに頭を下げてくれる子供達のいじらしさに、強く胸を打たれたのである

もしそれが、君に対する愛よりも遥かに強いものと言ったら君は怒るだろうか

否、否・・・

決して君は怒らないだろう

そして俺とともに、俺の心を理解してくれるだろう

本当にあのように可愛い子供達のためなら、命も決して惜しくはない」

 

この手紙の凄いところは、恋人よりも偶然通りがかった田畑で頭を下げてくれた子供に対する愛情の方が強いと言っている事です。

 

戦争がなければ二人の間に生まれたであろう子供を見出した、と解釈できますが、当時のことですので、他人の子を我が子として、おそらく宅島が守ろうとした日本の子として書いたのだと思います。

 

日本の子=守るべき自分の子という、当時の共通認識がなければ、意味がわからない文章ですが、恋人との間に共通の認識があったから美しい文章になり得ました。

同時に、相手に対する確信(信頼)を持てなければ、この文章を書くことは不可能でと言ってもいいでしょう。

 

先に、国家、歴史、伝統が機能している時の方が純愛は生じると書きましたが、宅島の例は、国家が純愛を支えた一つの例かなと思います。

 

そして共通認識の先にあるものとは、抽象的な表現で恐縮ですが、

「一緒に永遠を見たという記憶」

と表現させていただきます。

 

日常を守るために宅島は死んでいった。

日常を超えた世界から始まる純愛が日常を支えるならば、日常は日常を超えたものが支えるのである。

つまり、日常しか知らない人には、純愛はできないのである。

純愛とは何か①

我々日本人は、明治以降に整備された、人工的な標準語でモノを語るようになった。もともと持っていた言葉を変えたのなら、自分の本当の気持ちと言葉との間にズレがあるのではないか。

自分の気持ちと言葉にズレがあるままで、純愛は成立するのか。

 

という問題提起から、まず「純愛とは何か」について書いていこうと思います。

 

恋愛の中でも特に美しい、純愛とは何か。

 

物事を引き立てる要素の一つとして、「ドラマ」があります。

 

例えば、2016年に公開された「君の名は。」で有名な新海誠監督が、2007年に公開した映画「秒速5センチメートル」を考えてみます。

 

秒速5センチメートル」のキャッチコピーは、「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。」

 

※一部ネタバレあり※

 

あらすじは、以下のような感じです。

 

東京の小学校に通う、幼馴染の男の子と女の子の物語。

ある日、女の子が栃木へ転校してしまい、その後も二人は文通を続けますが、今度は男の子が鹿児島に転校することになります。もう二度と会えなくなるかもしれない…そう思った男の子は、女の子に会いに列車に乗ります。

しかし当日は関東で大雪になり、列車は遅延し、長い時間停車します。

深夜になって、ようやく待ち合わせ場所に到着した男の子は…

 

///

 

さて、大雪に見舞われ、列車が遅延している場合、現代であれば携帯やスマホで連絡を入れれば済む話ですが、そのような事をしたら、そもそもこの物語にドラマはなくなってしまいます。

 

相手を信じて深夜になっても待ち合わせ場所に行く男の子と、相手を信じて深夜まで待つ女の子が描かれているからこそ、ドラマになるのです。

 

つまり、非日常を舞台に、障害を乗り越えて結ばれるから物語になるし、それは純愛と呼ばれるのです。

とすれば、恋愛物語が人々を惹き付けるのは、非現実(ドラマティック)だから、とも言えるのではないでしょうか。

 

しかし、ドラマティックの対が日常や現実であるならば、日常や現実は、純愛になり得ないという事になってしまいます。

 

もちろん、日常や現実のワンシーンに非日常や非現実があることもありますが、

日常が、映画のようにドラマティックの連続であることはありませんし、

まぁ、頭の中がお花畑な人はいるかもしれませんが、それは日常や現実から目を逸らしているだけでしょう。

 

そこで、

現実や日常自体はピュアになり得ない

とします。

 

その時、日常に無理矢理ピュアを追求するとどうなるか。

 

つまり、相手や自分が持つピュアでない部分をそぎ落とした先に純愛があるとすると、どうなるか。

 

ここで、純愛の金字塔であるシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を引用します。

ロミオとジュリエットといえば、以下のシーン

 

Juliet

O Romeo,Romeo! ああ、ロミオ、ロミオ、

Wherefore art thou Romeo?何故あなたの名前はロミオなの。

Deny thy father and refuse thy name;お父様と縁を切り、その名を捨てて。

Or,if thou wilt not,be but sworn my love,それが無理なら、せめて私を愛すると誓って。

And I’ll no longer be a Capulet.そうすれば、私はキャピュレットの名を捨てましょう。

‘Tis but thy name that is my enemy;モンタギュー家のロミオ、その名前だけが私の敵。

Thou art thyself,though not a Montague.モンタギューでなくても、あなたはあなた。

What’s Montague? 家柄に何の価値があるの。

it is nor hand,nor foot,Nor arm,nor face,nor any other part手足や腕、顔とは違う。

Belonging to a man. O,be some other name! 人間の一部じゃないのよ。ああ、あなたの名前を変えて。

What’s in a name? 名前に意味なんてあるもんですか!

That which we call a roseバラと呼ばれるあの花は、

By any other word would smell as sweet, ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない。

So Romeo would,were he not Romeo called,だから、ロミオだって、ロミオと呼ばなくても、

Retain that dear perfection which he owes without that title. あの完璧なすばらしさを失いはしない。

Romeo,doff thy name,ロミオ、その名を捨てて。

And for that name,which is no part of thee,あなたの本質とは関係のない、その名前と引き換えに、

Take all myself.私の全てをあげましょう。

 

 

この戯曲の凄いところは、家柄のみならず、相手の名前すら相手の本質ではないと言っているところです。

 

つまり、全てを切り捨てて、本当に相手のピュアな部分を残した物語がロミオとジュリエットと解釈できます。

 

とすると、

純愛とは、日常の全てを捨て去って、非日常に入り込むこと

ではないでしょうか。

 

一方で、そこまで削ぎ落とした時に人は生きていられるかという問題が生じます。

その答えは、ロミオとジュリエットの結末どおりです。

 

つまり、純愛の究極形態の一つに「死(ないし、自己犠牲)」がある考えます。

 

もちろん、ここでいう自己犠牲は、俺がここまでしてやったのに!というエゴの押し付けをいうのではありません。

 

では、純愛(エゴの押し付けにならない自己犠牲)とは何か。

 

純愛とは、

エゴの押し付けにならない信頼関係を前提とした、「男女間で共通認識を持ち、相手の中に永遠を見ること」

としてみたいと思います。

 

ロミオとジュリエットの場合、お互いの家がいがみ合っていない関係が望ましいと云う共通認識を持っていました。

 

ロミオとジュリエットがお互いに愛し合っているという信頼関係を前提として、お互いの家が大事だという共通の認識を持ち、全てを投げ打ってでも一緒になりたい(永遠を見る)としたから、あれは純愛物語になったのではないでしょうか。

 

とすれば、家制度など、歴史、伝統、国家というものが機能している時の方が純愛は成立しやすい、と考えられます。

 

ここで面白いのは、歴史、伝統、国家などのシガラミがなければ、そこにドラマは生まれない。シガラミがあるから、ドラマが生まれ、純愛になるという事です。

普遍的な価値観を持つという事

現代貨幣理論(以下、MMT)について、肯定的に書かれている記事を目にすることが多くなった。

MMT(現代貨幣理論)が、日本経済を「大復活」させるかもしれない(小川 匡則) | マネー現代 | 講談社(1/6)

MMTは純粋理論のため間違っているとする根拠がわからない

 

私は、MMTが採用され、日本の政策が緊縮財政から積極財政に切り替わったとしても、「日本が良くなる」という希望が持てない。

 

そもそもMMTは、アメリカ民主党29歳の新星で、将来の女性初大統領ともいわれているオカシオコルテス下院議員が支持を表明したことから大きく議論されるようになった。

さらに、MMTの提唱者であるニューヨーク州立大学のステファニーケルトン教授が美人の学者であり、批判にさらされながらも毅然と反論している姿が注目される一因になったのだろう。

しかしMMTが取り上げられる以前から、日本の学者の中でも心ある人は、MMTと同じことを提唱していたが、何ら取り上げられることもなかった。

 

MMTが日本で大きく議論され、日本の政策を変えるに至ったとしても、それは幕末の黒船と同じく、能動的な動きではありません。ただ、流行だから、グローバルスタンダードだから、合わせているにすぎない。

日本人は流されやすいといいますが、何故このようなことになってしまうのか。

 

それは、どのようなことを議論しても「考え方は人それぞれ、何事もバランスが大事だ」という話に終始してしまうことが一番の原因だと思う。

 

近代に入って、社会は絶対的な価値観の追求を諦め、相対的な、偏差値的な世界観を中心に据えるようになりました。

 考え方は人それぞれだよね、と言って、何が正しいのかを考える事を放棄した。

しかしそれは、絶対的なものは無用になったからではなく、渋い柿だとして捨てたに過ぎない。 

 

私は、「普遍的な価値観」はあると思うし、「持つべき」だと思う。

例えば、江戸時代にあった「士農工商」という価値観と、現代の価値観を比較する。

士農工商の説明は省略するが、現代では悪しき封建的階級的考え方だと非難される。

しかし、過去を批判する現代は立派な価値観を持っているのだろうか。

 

下記の図表ように、この20年間で労働分配率は横ばいにもかかわらず、投資家への配当が異様に高まった。つまり、士農工商とは真逆の価値観により、国柄が変えられてきたのだ。

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http://mtdata.jp/data_65.html#houjin

私は、労働者よりも投資家が尊ばれる、西洋の大航海時代的な価値観よりも、士農工商の方が馴染みやすいし、どちらがいいかという話でなくても、上記の図表から読み取れる国造りは間違っていると思う。

 

では次に、「持つべき」としたことについては、以下のような考え方に基づきます。

 

自分のスタンダードがない国民というものは、グローバル・スタンダードなるものがあったとしても、それとの距離も測れず、協調もできず、それに対し批判することもできず、提言も何もできないからです。

 

そもそも世界にあるいは他者に認められるとはどういうことを指すのでしょうか。

譲歩を前提としたり、他者に媚びたり、他者の基準に一方的に自らを合わせるということで あったとすれば 自分は何を目的とし、何をなすべきかということを大切にするよりもまず他者の評価を気にかけ、嫌われないようにしよう、そうした不安にとらわれないようにしようそういう姿勢につながっていくのではないかと思います。

それではいずれ他者に寄り添う、合わせることばかり考える人間になるのではないでしょうか。

私たちはまず堂々と自ら成すべきことに挑む、自らの価値観を信じて生きる、戦う、という姿勢を取り戻すべきではないかと思います。

 

 

さて、本記事の最初に「日本が良くなる」という希望が持てないと書きましたが、

その国や国民が望ましい状態にあるかどうかについて、江藤淳が著書「南洲残影」で以下のように書いており、深くうなずいたことがありました。

 

江藤淳著「南洲残影」より

 

いつもスマイルしていなければならない、そんな人生ほど辛いものはないと思ったものだが、しかし考えてみれば、いま大半の日本人はそんな人生を送らされているのではないか。

人間というものは、元来もっと不幸なものだ。不幸なことを許容されないような世の中は嘘の世の中だ。だが、現在の日本の社会は、不幸であることを許容しようとしない。なぜこうなってしまったのか。もとをただすとおそらく明治維新まで行きつくのだろうと思う。

私は、人は何も成功などしなくてもよいと思うのだ。失敗して大いに結構だ。人間は大体において不幸なものであり、しばしば失敗するものなのだ。西郷は、要するに成功至上主義、近代化最優先主義、優勝劣敗主義という風潮に対して「ノー」といったのである。そうではない、明治維新は、そんなものを求めて起こしたものではない、と。

明治維新は日本人が日本人らしく暮らし続けるために実現されたのだ。日本の政治体制や価値観を決めるのは日本人以外の何物でもない。同様に、外国の価値観や生き方を決めるのは外国人であってそれ以外の何者でもない。その相互が尊重し合えばよいのではないか。

それもできずに西洋人のサル真似をして、成功しなければ駄目だ、失敗は許されない、という、そんなことだけが目的の人生は虚栄のための人生、成功者だけのための社会ではないか。

 

私は西南戦争を起こした西郷南洲と彼に準じた人々に深く感謝したい気持ちを持っている。この壮絶な失敗は、絶対に日本国民の記憶から拭い去ることはできない。

平家の滅亡と同様に、西郷の滅亡は忘れることのできるものではない。人間は不幸でちっとも構わない。失敗して何が悪いのか。それを直視するところからこそ勇気が出てくるからである。

成功だけが目的の国家は卑しい国家である。我々日本人は、今こそ西郷が死を賭して後世に遺した無言の思想の含蓄を噛みしめ、「第二の敗戦」と言われる現在の経済的混乱を好機として、新しい国づくりに立ち向かうべきではないか。

 

 

おそらく、MMTにより「失われた20年」という経済停滞から脱却できたとしても、「アメリカが、中国が…」という他人を主語にした国策が展開されるのだと思います。

 

日本を主語とした、日本がどうあるべきか、どうありたいか、という事を真剣に考えなければ、三島由紀夫のいうとおり

 

「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」

 

少なくとも、自分は、そういう卑しい人間にはなりたくないのである。

財政破綻シナリオを考える

現代貨幣理論(MMT)を解説するにあたり

まずは、MMTに対してどのような批判があるか、順を追ってみていきましょう。

 

まず、「日本の借金問題」について、

先の記事(「現代貨幣理論を勉強する」)で紹介した通り、通説と前提が大きく異なる点について、具体的に説明しようと思います。

 

通説どおり、財政拡大の大小は、政府債務残高対GDP比で判断するべきだとすると、

下記の図表の通り、日本は主要国最悪の状態です。

 

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財政に関する資料 : 財務省

 

しかし、2009年秋のギリシャ財政問題から端を発した、ユーロ危機に代表されるギリシャやイタリアの政府債務残高対GDP比は、日本よりも低い。

なぜ、ギリシャやイタリアは失業率や国債金利などの上昇などが騒がれているのか。

 

ちなみに、日本の失業率は、2018年1月の雇用統計によると

完全失業率は2.4%、若年層失業率は3.3%であり、ほぼ完全雇用に近い状態となっている。

さらに国債金利は、マイナス金利と言われるほど低い。

本当に日本の国債が危機的状態なのであれば、金利は上がるはずであるが、過去最低を更新している。

 

なぜ、日本とギリシャ・イタリアは、同じ財政危機と言われているのにこのように状況が違うのだろうか。

 

MMTによれば、

自国通貨建ての国債を発行している国(日本、アメリカ、イギリスなど)が財政破綻する可能性はゼロである、という。

 

当たり前であるが、自国通貨建ての国債の償還を求められても、政府は自国通貨を発行できるから、財政破綻はしない。

これについて主流派経済学は、

「自国通貨建て国債を発行できる国は、無限に借金をしていいなど、暴論だ!」

と主張します。

 

しかしMMTは、無限に借金をしていい、などと言っていません。

MMTは、財政拡大(借金)ができる判断を決める指標を、政府債務残高対GDP比ではなく、インフレ率だと主張しているのです。

 

つまり、MMTに対する主流派経済学の批判は、的外れであり、MMTを単純に理解していないとすら思われるものが多いのです。

 

 

次に、主流派経済学が主張する財政破綻シナリオとして、

政府債務残高が、民間貯蓄残高を上回ったとき、一気に金利が暴騰して、財政破綻を起こすというものがあります。

 

しかしこれは、国債発行のプロセスを全く理解していない、非現実的な説です。

そもそも政府が国債発行で借りるお金は、銀行預金ではなく、日銀当座預金(日銀預け金)です。

 

日銀当座預金とは、日本政府、都市銀行地方銀行第二地銀協加盟行、外国銀行のみが保有することのできる、日本銀行中央銀行)に保有する当座預金です。一般企業や国民は日銀当座預金保有することはできません。

 

都市銀行地方銀行第二地銀協加盟行、外国銀行は、準備預金制度により定められた「預金総額×預金準備率」の金額分、日銀当座預金の残高を保有することが義務付けられています。



では、国債発行のプロセス見ていきましょう。

 

(1)銀行が国債を購入すると、銀行保有の日銀当座預金は、政府の日銀当座預金勘定に振り替えられる。※政府は国債を発行し、現金紙幣ではなく、日銀当座預金残高を「借りる」という話です。

(2) 政府は財政出動の際に、請負企業に政府小切手(日銀当座預金を担保に)で代金を支払う(個人が当座預金を担保に小切手を発行するのと同じプロセス)。※政府は日銀当座預金を担保に、「政府小切手」を発行するのです。

(3)企業は政府小切手を銀行に持ち込み、「政府からの取り立て」を要求する

(4)政府小切手を受け取った銀行は、相当する金額を企業の預金口座に記帳すると同時に、代金の取り立てを日銀に依頼する

※この時点で新たな民間預金が増え、マネーストック(現金及び預金)が拡大します。

(5)日銀は、「政府保有の日銀当座預金」の該当額を、「銀行保有の日銀当座預金」に振り替える

(6)銀行は、戻ってきた日銀当座預金で、再び国債を購入することができる

 

上記のプロセスから分かるように、政府が国債を発行する(政府債務残高を増やす)と、民間貯蓄残高は増えるのです。

つまり、銀行が民間から集めた預金を、政府が使っているのではありません。 

 

上記のプロセスは、経済学者、会計士、税理士ですら理解していない人が大半です。

その証拠に、政府は国債発行で国民の預金を借りているのか、それとも日銀当座預金を借りているのか。日本政府が国債を発行すると、家計の預金は減るのか、増えるのか。

 

身近にいる方に聞いてみて、

「国民の預金を借りて、家計の預金は減る!」

というひとが居たら、おそらく簿記の基本中の基本である、借方と貸方の意味を理解していないのでしょう。

 

評論家の佐藤健志氏は

実際我々が絶対の真理のごとくみなしているもののほとんどは、特定の認識枠組みの下で正しいだけの代物にすぎない。

この違いを理解できず、一定の条件の下でのみ正しいことを普遍的に正しいと思い込むことを賢いほどのバカはいない、というのです。

とおっしゃっており、まさに日本の借金問題を真の意味で理解していない人の多いこと…とあきれてしまいます。

現代貨幣理論(MMT)を勉強する

今回は、話題の現代貨幣理論(以下、MMT)について勉強したことをまとめていこうと思います。

 

MMTを端的に説明すると、

財政拡大の大小は、インフレ率で判断するべき

 

分かりにくいので、通説と並べてみます。

通説は、

財政拡大の大小は、政府債務残高(対GDP比)で判断するべき

 

つまり、通説は、

その国の経済規模に即した借金の範囲内で、公共投資などの財政拡大をするべきだ

という考えですね。

 

一方で、MMTは、

・物価が下がり貨幣価値が上がっている経済状況(デフレ)では、政府債務残高の大小に関係なく、公共事業などの財政拡大をして、景気をよく(インフレ)し、

・過度に物価が上がり貨幣価値が下がっている経済状況(過度なインフレ)では、政府債務残高の大小に関係なく、公共事業などを減らしたり、増税をして、市場から貨幣を吸い上げて、景気を落ち着かせる(適度なインフレ)にするべき

という考え方です。

 

ここに、MMTと通説とでは前提条件に決定的な違いがあります。

 

それは、MMTが、自国通貨建で国債を発行している場合、政府債務残高が過大になることで財政破綻(デフォルト)することはあり得ないとしている点です。

 

この前提条件が、世界中を巻き込む大論争になっているのです。

 

 

一般的な感覚からすれば、政府も家計と同様に借金はいずれ返さなくてはならない、と考えるでしょう。

 

しかし、MMTは、ビジネスなどの家計と政府の財政は、全く異なるものであり、分けて考えるべきだと主張します。

 

その理由として、

・政府は通貨発行権を持っているため、通貨発行権を持っていない家計とは異なり、

・また、国債の償還が必要になったとしても、新たに国債を発行して借り換えることが可能であるから

としています。

 

通説とMMTとでは、前提条件(財政破綻するかどうか)が異なるため、どちらを採用するかにより政策意思決定が全く異なるものになります。

 

この180度違う前提条件ゆえに、主流派経済学とMMTは真っ向から対立し、これほどの議論になっているというわけです。

 

ここまでが、MMTを巡る議論の端的なまとめになるかと思います。

 

 

さて、MMTに関する説明は、YouTubeを始め、本や雑誌など、あらゆるものが取り上げており、そのコピーをこのブログで書くのは、あまり面白いものだとは思いません。

 

 

そこで、私がこのブログを通じて書きたいのは、MMTの是非はもちろん、その背後にあるモノの考え方です。

 

ある目的に向かって走る「処理能力」と、その目的自体の正否を考える「思考力」とは違います(かつてM・ウェーバーは、それを「目的合理性」と、それ自体価値がある「価値合理性」の区別として論じたことがあります)。

 

現代は、勉強にしろ、仕事にしろ、ある目的に向かって走る「処理能力」が求められ、その目的自体の正否を考える「思考力」が求められない社会になっています。

 

私が試みたいのは、MMTの解説に加えて、思考力自体を問うてみたいのです。

 

 

次回以降、MMTの議論を深掘りして考えたいと思います。

その過程で、貨幣とは何か、なぜ貨幣に価値があるのか、デフォルトしないのであれば税金の意味は何か、という事を細切れにして説明しようと思います。

 

ただ、誤解を招かないように注意を払ったり、調べながら書くので、MMT解説は飛び飛びになると思います。